プロフィール

初めまして。Kouheiと申します。
生まれも育ちも”葛飾柴又です。帝釈天でうぶ湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。”・・・はだれも突っ込みませんかね。(ボケが長い)
プロフィールにあまり景色がないのも殺風景過ぎるので、旅行で行った遠藤周作文学館の上の駐車場から見える、外海の夕日をアップしてみました。
うつ病を患っている僕にとって、海や山々、空や夜景など、自然の景色を眺めると心が大波からさざ波のようにさーっと引くように落ち着き、穏やかな気持ちに戻れます。

簡単なご挨拶
インターネットや、ガジェット系が好きで、自分自身の闘病のリハビリと記録を主に、また少し違った視点から趣味なども綴りたいと思い、ブログをしています。
歳はある程度いっていますが、ヤバい人ではないのでご安心を。(闘病のことだけだと、読者の皆さんへも気分を暗くさせてしまって申し訳ないですし、僕自身も書きたい内容として味気ないですのでね^^;)
自分のもつ病気への精神的な気持ちの安定と、身体の不調がある中でも何か自分にとってできることがないか、と模索した中で、両方を満たし、有益な情報、僕の価値観を届けたいという思いで書いています。
趣味や好きなこと・興味のあること
最近はVR技術とAIに興味津々。どこまで進んでいくんだ技術。無類の歴史、ガンダム好きです。幕末など、戦国時代と藩士を語らせたら延々喋れます(笑)
AKBは峯岸みなみ推しです(ガチです)ミネミナ(略して呼んでない?)
映画やアニメも大好きで、なかでも宮崎駿監督を崇拝しています。(神だこの人は)
スタジオジブリ作品は全て。手がけた作品は「未来少年コナン」から←(通でしょ)「風立ちぬ」まで全て観ています。トランスフォーマーやスターウォーズシリーズも大好きです。
音楽はMr.childrenとスピッツの大ファンで、何度ライブを見に行ったか覚えていません。
旅行や食べ歩きも20代の頃は良くしていました。(過去形になる理由は後述より)
飲食個人事業主としてカフェ店の経営も4年ほど経験しており、店内を装飾する取り扱い商品先との関係もあってアンティーク雑貨や骨董品集め、他にフィギュア、プラモデルなどの模型製作も好きです。
名前 | Kouhei |
経歴 | 眼鏡販売営業⇒生保営業課長⇒飲食カフェ店経営⇒介護職員などを経て現在に至る |
資格 | 社会福祉士、ケアマネ、福祉住環境コーディネーター、簿記2級 |
趣味 | Apple製品、ネットサーフィン・映画を見ること |
年齢 | 36歳 |
性別 | 男性 |
居住 | 九州・長崎(山奥です) |
家族 | 3人 |
その他 | 現在適応障害、重度のうつ病と闘ってます。 |
簡単に生い立ちなど

小学生時代はサッカーとバスケットに夢中。中学時代はバスケ部で補欠に甘んじるも、陸上転身で才能が開花(?)し、陸上中総体1位に選ばれました。
高校進学は特に情熱もなく、仲の良かった親友に頭ごと引きづられるように私立の某工業高校へ入学。
しかし当時、機械関係やパソコンなどに全く興味がなかった私の頭は常に学園ヒロインの追いかけ○○○真っ盛りでした。入る言葉はご想像にお任せします。綺麗な言葉で言うなら思春期ですよ。
クラブ活動や行事には積極的に参加していましたし、文化祭でバンドを組んでギターとボーカルをやるなど、趣味はとことん掘り下げるものの、本当に向き合った将来の目標や、己の研鑽能力はほぼ皆無でした。
拒食症とパニック障害も経験し、精神に歯向かう日々
拒食症は中学3年の夏頃に。パニック障害は高校1年目に入学してすぐ、路面電車内の満員の密室空間の中で閉鎖された圧迫感に異様な緊張を感じ、眩暈と嘔吐感を感じたことで発症。
拒食症のきっかけは自分のクラス内での立ち位置(よくありますよね、仲の良い友達同士でグループを作って、クラス内や学級内で自然と派閥のようなものができる)を疎ましく思った同級生からの執拗ないじめが原因でした。
夏休みから不登校になるも、約3ヶ月後の11月には何とか学校へ行き出すことができましたが、文化祭を経験できなかったのが悲しかったです。復帰することになった学校登校日初日、担任の先生とクラス全員が玄関入口で待ってくれていました。
あの時の光が指した自分の気持ちと、仲のよかったある女の子の泣きじゃくったまま自分に飛びついて、抱きしめてくれた感触は今でも色褪せぬまま、よく覚えています。
しかし実際に学校へ行き出すことはできたものの、その後も拒食症の症状や状態は悪くなる一方で、食べ物を全く受け付けず、高校入学時の体重は身長約170cmに対し、38kgくらいにまで激減。(高校入学時に記念で撮った学生服姿の写真は、今でもアルバムにとってあって、見ると改めて当時の悲惨だった自分の状態を思い出します。)祖母に付き添われて栄養不足の点滴まで受けに病院へ行ったこともあります。
結局パニック障害の自律神経失調症状との弊害もあって、電車やバスといった乗り物類には長時間乗ることができず、それでも行けるところまで自転車を使って、途中からバスに乗るなど自分なりに工夫をしながら登校。頑張って登校しても今度は学校教室内の密室空間でも症状がでて、貧弱な身体が耐え切れずに何度か休学したこともありました。
最終的に拒食症を克服できた時期は、大学生1年目、パニック障害は少し遅くて、確か大学2年目くらいだったと思います。
時系列的には高校卒業と同時に、進学に迷っていた時、なぜか遅れた反抗期が訪れ、地元を離れてこれもなぜか流れるように福岡の二日市(現筑紫野市)にある某私立福祉大学へ入学しました。
その後も流れるように眼鏡の販売営業⇒生命保険営業課長⇒雑貨&カフェ店の経営⇒介護職と経験し、職場での執拗なパワハラを受け、うつ病を発症⇒現在という感じです。
ブログをはじめた動機
一言で言えば、自分の「適応障害」「うつ病の克服」のためです。
病気を負った今の自分にできる「表現」と「感情」を書くこと。
ブログは自分の中で一つの「治療法」だと思っています。
適応障害と重度のうつ病の発症
適応障害は、眼鏡販売の営業職在籍中に、うつ病は今在職中の介護職である先輩職員からのパワハラが原因で発症してしまったわけですが、発症当初は本当に無気力で、自分が本当に生きているのかも実感できていない状態でした。
意識不明の症状を伴う適応障害になったきっかけは、発症して10年になる今でも、自分でも明確な原因は正直分かっていません。
ただ、当時営業のノルマは毎月ありえない数字でしたし、アポ取りや業績に見合うだけの結果を残せない自分と、上役との確執、仕事の中身にもかなりのストレスを感じていたことは事実です。
同僚との人間関係はそこまで悪くはなかったものの、やはり仕事による精神的、身体的ストレスが想像以上にかかっていたんだろうと思います。
うつ病は同じ介護職員同士の陰湿な陰口や、自分の介助中にあえて器具を使わせない、罵倒、無視、休憩時間を取らせてもらえないなどの執拗なパワハラがきっかけであることは自分も自覚していますし、それが原因の根本だともはっきりと理解できています。
「こんな自分が生きていてもしょうがない。」「家族に迷惑をかけるだけだ。」と。そういったことばかり考える毎日でした。
3月から休職し、このブログを開設(11月)して、介護職を2018年12月いっぱいをもち正式退職、うつ病1年、適応障害との闘病生活は10年目に入っています。
現在も含めて、両方の症状は自分の精神状態や、「その時」の気持ちに大きく左右される傾向があり、具体的な症状として激しいギリギリとした頭痛や、吐き気(嘔吐)、身体全身に鉛の塊がのったように重くなったり、食べ物が喉を通らなくなったりします。
ひどい時は3日くらい飲まず食わず(厳密には、心配した母がポカリスエットやアクエリアスを持ってきてくれて、やっとそれを飲めるくらい。)で、自分がその間に何を考えていたのか、仕事や人生のことに悲観していたのかも分からない、”記憶がとぶ”状態に陥ります。
介護職休職中の最初は、そんな波のある生活の中、ただただ成す術なく、ぼーっと毎日パソコンに向かい、同じうつ病患者の方や適応障害の方が悲鳴をあげている某掲示板を、自分も重なるような気持ちで眺めていました。
はてなブログを賑わすあのブログと出会う
そんな時に、あるひとつの、某有名ブロガーの方が手がける面白いブログに出会ったんです。
そのブログを見て、自分はこの病気になって始めて心の底から笑いました。
「はてなブログの有名人」と言えば、ピンと来る方はいるかもしれませんね。
その時に「ああ、自分もこの人のように、何かを表現してみよう。」と思いました。
無我夢中で没頭できるものがないか、と今の自分に出た最善の結論が、この方がまさにやっていた「ブログを書くこと」でした。

無気力で究極の自暴自棄に陥っていた私を救ってくれたきっかけですね。
最後に:愛猫と僕より、見てくださる方へ
記事として同じ病気の方へ励みになることが書ければ、とも正直思っているのですが、私自身が逆にコメントなどで励まされる立場になるかもしれません。
治療しながら、精神障害、身体の不調と闘う日々です。
現在は介護福祉事業、小規模多機能施設を立ち上げ、運営しています。障害のある方や自分と同じ病気を患う方、難病に苦しまれている方が温かく、安心して時間を忘れ、ゆったりと暮らすことができる施設運営をしていくのが当面の目標です。
気軽に読んで貰えれば幸いです。